安田 好弘
1998年10月5日夜のことだ。私の事務所に依頼者が駆け込んできた。彼の名前はS氏。この人とつき合って6年になる。シンガポール国籍の在日華僑2世で、不動産会社「S社」の社長だ。いつも穏和で、笑顔を絶やさない。しかし、この日は違った。こんなことは初めてのことだ。「テレビ局が会社の写真を撮っている。警視庁も動いている。容疑は脱税、外為法違反、そして強制執行妨害だという。関連のW社という会社が関係しているらしい。しかし、思い当たらない」。S社長は私にそう言った。
その話を聞いて、私がS社の顧問税理士に問い合わせて、ようやく事態が分かった。W社は、でサブリース(ビルを一括借り上げして、テナントに転貸する業)をしていたが、転貸によって得られる賃料を全額そのまま素通りさせて、S社で使っていたという。税務申告書を送ってもらうと、そこには、「強制執行を免れるためにしています」という趣旨の記載があった。税理士は、「自分の判断で書いた」という。私は、驚愕した。警察・検察からすれば、これほど格好な材料はない。S社の大口の債権者は住管(住宅金融債権管理機構、現在の整理回収機構)。警察が動いているとすれば、住管しかない。
住管は、預金保険機構に債務者を調査させて資料を入手し、それを警察に提供して債務者を告発し、債権回収をはかる。彼らの常套手段だ。
私は早速、住管に出かけた。支払えるものを支払って、問題を解決しようと考えたのだ。そして、S社長は返済資金の調達のため、社長の息子は資料収集のために海外に飛んだ。私は、住管にこう約束した。「S社のすべての財務状況を明らかにするし、住管が担保に取っている不動産をただちに売却して返済し、さらに別途に海外で30億円を調達して返済する」。そして、私は、住管の3人の担当者(弁護士、国税、銀行からの出向者)に、S社が警察の捜査対象になっているとの噂があるが、住管が関係しているのではないかと問うた。すると彼らは、即座に否定した。「警察が動いているなど初耳だ」と言う。それでも、私は不安だった。知らないのは担当者だけかもしれない。私は、その弁護士に約束させた。「住管内部でそのような動きがあるか調べて、その結果を知らせてほしい」と。翌朝、その弁護士から「警察が動いているという話は全くない」と電話が入った。しかし、これは嘘であった。彼らは、そのはるか前から警察に捜査をさせており、その担当者らは警察の取り調べに応じていた。
S社は、財務状況を住管に開示した、債務の一部返済も始め、物件の売却に取りかかり、30億円の調達の目途もついて、その旨を告知した。ところがその矢先、いきなり警察がS社の財務担当のI氏を任意同行して取り調べた。住管に対する強制執行妨害だという。S社長親子にも、呼び出しがかかった。私は、慌てて住管に電話した。すると住担当者は、「警察が動き出した以上、話合いをするなと上から言われている」と答えて電話を切った。それで、当時常務であるK弁護士、専務O弁護士に電話した。
K弁護士はこう言い放った。「S社長は、払う払うと言いながら、結局、払わずに先延ばしにしてきた。それが許せないので告発した。反省をして、罪を贖った後でないと、民事の和解交渉はできないし、お金も受け取れない」。彼らは、債権を回収するのが目的だったのではないか。住管の債権取り立てに応じないことが、どうして犯罪なのか。何と傲慢なことか。
住管は、96年、その誕生からして誤りであった。当時、最大の懸案は政府農林関係金融機関が抱える多額の不良債権だった。それが、いつのまにか住専の不良債権の処理問題にすり替わった。農林関係金融機関には政府の財政支援がなされ、これを選挙基盤とする議員の命がつながった。他方、住専の不良債権は、一部を親銀行が負担し、残りを住管が政府資金を導入して買い取り、それを回収して処理することになった。この時から、企業破壊型の経済再建という不幸の連鎖が始まる。企業を支援して経済の再建をしようというのではない。破綻している企業を消滅させて、破綻していない企業だけにしようというのである。しかし、一つの企業の破壊は、必ず次の企業を苦況に陥れる。企業は萎縮して縮小し、多数の労働者を路頭に迷わせる。年間3万人というおびただしい数の自殺者。その多くが、その犠牲となった人たちではないか。自殺の場合でも生命保険が出るが、いずれ、それも破綻して出なくなるだろう。そうなれば、自殺者予備軍は、次は犯罪へと向かわざるを得なくなる。
住管は、預金保険機構の強大な調査権を利用して債務者の情報を入手し、財産を見つけ出して裁判所に差押えをさせる。そして犯罪を見つけ出したとして、警察・検察に告発して債務者を検挙させて債務を支払わせる。ビジネスは、様々な駆け引き、幾多の見込みと賭けの混在、そして失敗と成功、その中で自由・闊達に展開されて初めて成り立つ。その一つ一つを意図的に取り上げて脚色すれば、容易に「犯罪」を作り出せる。物を盗んだわけではない、他人を傷つけたわけではない。強制執行妨害、特別背任、公正証書原本等不実記載など、聞き慣れない罪名を乱用する。金融機関の一担当者でさえ、後に背任として摘発されることをおそれて、貸し付けができなくなっている。住管は、警察・検察の“民事介入”の道を開いた。警察・検察は、住管を契機として、一気に肥大化し、その影響力を拡大した。今や、企業が破綻すれば必ず警察・検察が介入し、元経営者を犯罪者として摘発していく。しかし、彼らの民事介入は確実に経済を萎縮させる。
住管は、預金保険機構の全額出資による株式会社である。実質、政府機関でありながら民間企業の形式を取って、国会等の監督や会計検査院の会計監査から免れる一方で、株主総会等の世間の監督からも免れている。彼らの糧は債権の回収だけ。必然的に強引な回収とならざるを得ない。しかし、債権を回収してしまえば、その分だけ収入源がなくなる。生き延びるためには、不良債権を増やし、これを次々と買い取っていくしかない。整理回収銀行の吸収合併、うち続く金融機関の破綻とその不良債権の買い受けは、その系譜の中にある。不良債権処理という国家的な政策が、国民の監督のまったく及ばないところでやられている。
住管の幹部職員は、検察官・警察官・裁判官・国税調査官等と弁護士からなる。彼らは、オールジャパンだと自賛する。警察も検察も裁判所も、そして弁護士会でさえ、彼らの手の中にある。しかし、弁護士は、もともと在野であったはずだ。権力に与することなく、国策に加担することなく、常に、野にあって、少数者、弱者、被抑圧者、異端者、そして社会から非難される人の側に立ち、その権利を擁護すると同時にその代弁者になることではなかったか。ましてや、住管の社長は、日弁連の元会長である。彼らの見識を疑う。住管が弁護士に支払った報酬は累計100億円を超えると言われている。今や、住管は弁護士の最大の依頼者となっている。住管は弁護士の精神を腐敗させ、司法の大政翼賛体制を現出させた。必ず、将来に禍根を残すだろう。私は、住管のK弁護士とは旧知の仲であった。一緒に事件をやったこともある。彼は、友人として私に忠告すると言った。「絶対に、S社長親子を帰国させて、警察に出頭させるように。そうしないと、とんでもないことになる」。私は、彼の忠告に従った。
10月18日の夜、私の事務所にみんなが集まった。確かに、平成4年末頃、会社の破綻に備えて従業員が食べていけるようにという目的から、会社の賃貸部門を分離独立させて新会社とし、そこに従業員を移籍させてサブリースをやらせ、それを基礎として新事業を展開し、生き延びるという再建策を立て、それをやろうとした。私のアイデアだった。しかし、なぜW社がサブリースをしたのか、W社がテナントから受け取った賃料が、素通りしてS社に入っていたのか。その経緯と理由を知っている者は、その時、誰もいなかった。
翌19日、孫社長と息子は、私の事務所に集まり、弁護人と一緒にタクシーに乗り込んで、警視庁に向かった。私も一緒に説明に行く予定だった。しかし、タクシーに乗り込もうとした時、S社長の弁護人に止められた。「弁護人でもないのに一緒に出かけていけば、口封じに来たと誤解される。それは、S社長にとっても不利になる」。私は、彼のアドバイスに従った。しかし、S社長はその経過を知らなかった。
その日の夕方、S社長らは逮捕された。S社長は、いきなり「2億1000万円をどこに隠したのだ」と追及された。何のことかまったく分からなかったという。逮捕容疑は、W社というダミー会社を設立して、そこにサブリースを仮装して、賃借人に賃料を振り込ませて賃料を隠匿したというのである。その「2億1000万円」とは、隠匿した賃料のことだという。一体、どこにそんな大金があったのか。実は、その2億1000万円とは、S社の経理担当者O氏ら従業員が、着服横領したカネだったのである。
警察・検察は、翌20日、O氏を呼び出して事情聴取し、そのことを知った。S社長らは、その場で釈放されるはずであったし、住管は、直ちに告発を撤回するはずであった。にもかかわらず、彼らは、O氏を逮捕するどころか、これをひた隠しにして、狙いを私に定めた。
警察・検察は、カネを隠匿したかどうかが問題ではなく、W社に実態を伴わないサブリースをしたことが強制執行妨害だとして、捜査の方向を転換したのだ。しかし、これもまたでっち上げであった。真相は、O氏らが、テナントから振り込まれる賃料を自分たちのものとするため、S社長に隠れてW社名義の銀行口座を開設し、サブリースをしたと称してテナントに家賃を振り込ませ、一部はS社のために使ったものの、残りは、さらに別の口座に振り替えて、備蓄していたのであった。それは彼らの横領の手段だったのである。
彼らの横領の手口は、手が込んでいた。彼らは、S社の就業規則を改ざんして会社都合の退職金を従来の4.5倍に増額していた。また、税理士と結託して二重帳簿を作成し、S社長をごまかし続けた。O氏にはこれ以外に、3億3195万円の使途不明金があった。
そのため、警察・検察は、容疑事実を9ヶ月前に遡らせて、S社の関連会社A社に対するサブリースに狙いを転換して、S社長親子らを再逮捕した。その容疑とは、93年2月、ノンバンクから催告書が送られて、これにびっくりしたS社が、強制執行を免れるため、A社へのサブリースを仮装し、さらに11月、そのノンバンクが差し押えをしてきたのに慌てて、今度はW社へのサブリースを仮装したとして、新らたな物語を作り上げた。
当時のことを、ほとんど誰もが忘れていた。私だけでなく、S社のみんながそうであった。もちろん、強制執行を妨害しようとする意思などなかった。そもそも、ノンバンクから送られてきた催告書は、後順位抵当権者に見せるために、S社のI氏がノンバンクに依頼したものだった。サブリースを行っても、強制執行を免れることはできない。隠れて行っているわけではないので、せいぜい、調査を怠った債権者が差し押さえの当事者を間違えるだけである。それも債権者はすぐに間違いに気づくから、再度、差し押さえを行えば足る。弁護人らは、税理士やO氏に事情聴取したが、税理士はO氏に聞かないと分からないと言い、O氏は、話すことはないと突っぱねた。
弁護人は拡充された。新たに3人が加わり、6人体制となった。そして、それまでの記憶どおりに話をするという方針が、完全黙秘に変更された。記憶も喚起されていないのに、しゃべれば必ず警察や検察の落とし穴に陥れられ、事実をねつ造されるというのだ。しかし、私はこれに反対した。S社長らは一民間人。黙秘に耐えられない。責めたてられ、結局、無理やりに黙秘を解かされる。その時の反動が怖い。事実でないことを、一気に認めさせられてしまう。私1人が反対した。しかし、私は弁護人ではなかった。
警察は徹頭徹尾、安田の役割をS社長たちに聞いていた。そして、私に対して10月25日に呼び出しをかけてきた。弁護人全員が、私も黙秘を貫くべきであると要求した。結局、私は弁護人と妥協した。逮捕の前日にS社長らと「私が警察に出かけて行って事実を説明し嫌疑を晴らす」と交わした約束を破ることになるからだ。S社長達たちは、一日千秋思いで待っているに違いない。
当日、私は警視庁に出かけた。N氏という責任者が私に対応した。私は彼に、「嫌疑をすべて認めよう。私を逮捕しろ。しかし、その代わりにS社長ら全員を釈放してくれ」と要求した。彼は尻込みをして、話をそらし、S社長やI氏の悪口をまくし立てた。「私から何を聞きたいのか、早く聞け」とせかしても、抽象的なことしか聞いてこない。その日の取調は40分程度だった。N氏はすぐにS社長らが留置されている警察署に走った。そして、勝ち誇ったようにS社長らに言った。「安田は逃げたぞ。自分で説明すると偉そうなことを言っておきながら、黙秘して帰ったぞ。卑怯な奴だ」。その言葉が、S社長らの私への不信感を煽った。
これに、もっとも煽られたのがI氏であった。彼は、私が説明に来るまではと懸命に黙秘を続けていた。しかも当時、検事から「君は軽くないぞ」と脅されていた。私への不信、怒り、それが弁護人への不信へと拡大していった。
私の2回目の事情聴取は、6日後の土曜日となった。その前夜、S社のI氏のところに女性の弁護士が訪れ、いきなり弁護人全員の解任を迫り、新たに3人の弁護人をつけた。彼らは、オウム真理教(アーレフに改称)の元信者夫婦の弁護人だった。そして、その1人は、法廷で私の名前をわざわざ挙げて、オウム事件で口裏合わせの工作をしていると非難した弁護士だった。旧弁護人とI氏との接触は、完全に切れた。矢継ぎ早に、新弁護人から旧弁護人に対し、I氏から預かっていた手帳やフロッピーディスク等の証拠物の返還要求が来た。それらは、I氏が警察の捜索に備えて、あらかじめ隠していたものであり、逮捕後に弁護人がそのことを知り、預かっていたものだった。これらは、すべて新弁護人に返還された。そして、全部がそのまま警察に提出された。その後は、それらの一部がつまみ食いをされて、長大な物語が作り上げられていった。それだけではない、私への狡猾な証拠隠滅工作の物語も作り上げられていったのだ。
とにかく、I氏は、打ち出の小槌であった。彼を中心にして膨大な物語が作られ、それに基づいてS社長らが取り調べられ、次々に事実を認めさせられていった。こうした事件は、すべて安田の指示で無理やりにやらされたという物語が出来上がったのだ。私の逮捕は、時間の問題となった。容疑を裏付ける証拠も、逮捕の必要性、つまり証拠隠滅の証拠も充分ある、ということだ。それは、こういうことだ。私は、自分の知り合いの弁護士をS社長らの弁護人につけ、これに指示して黙秘をさせて捜査を妨害し、さらにI氏の証拠を一部返還せずに証拠隠しをした。しかもフロッピーディスクを消去させるなど証拠の隠滅も行っているというものであった。(実は、未返還の物はなく、フロッピーディスクは、I氏自身が消去したものであることが後に明らかとなる)。
11月28日、いよいよ担当のU検事が私を呼び出した。私は彼に対し、「S社長らの供述に反論しない。黙秘する」と言った。これ聞いて、検事はうれしそうな顔をした。取り調べの拒否。まさに逮捕の最大の理由ができた。しかし、彼は、違うことを口にした。「私は、人間として、あなたの態度を尊敬します。あなたがS社のためにやってこられたことに敬服します。しかし、S社長があなたのせいでこうなったと言い、しかも、あなたに支払ったお金は、強制執行妨害の妨害方法を教えてもらった見返りの報酬だと言っている以上、仕方がありません。あなたをどうするかは、上司がその上と相談して決めます。今日のあなたの態度は、とても不利になります。責任をどのように取ろうと考えておられますか」と聞いてくる。私は、即座に答えた。「あなたにとやかく言われる必要はない」。責任は自分で考え自分でとるものだ。U検事は安堵した。弁護士はこのような場面で、弁護士登録の抹消を取引にして、強制捜査や刑事訴追を免れる。これを拒否する、ということは、私を逮捕し勾留し、起訴することに何らの障害もない。U検事は、私をエレベーターの前まで送ってきて、頭を下げ、「お体を大切になさって下さい」としゃべった。逮捕する時の彼ら一流の礼儀である。
私は、それまでS社長らにこう言ってきた。「いざという時には、すべて安田のせいにして下さい」と。私ならば闘えるし、私のせいにすればS社長らが楽になると考えた。そして、そのとおりになった。S社長は、弁護人との接見で泣いた。自分の弱さに対する悔悟であった。私は、それを聞いて、彼に同情した。事前の私との約束通り、私のせいにしている。しかし、それが負担となり、泣いて、私の一生の面倒を見るという。彼のいかにも商売人らしい誠実さに、私は納得した。
12月4日、路上でテレビカメラが私を追いかけてインタビューを迫った。私の逮捕は秒読み段階となった。そして、「麻原公判」の100回目公判が終わった後の日曜日、98年12月6日。警視庁捜査2課は、麻原弁護団の会議を終えてビルから出てくるのを待ち構え、私を逮捕した。私は警視庁に連行され、麻原彰晃被告と同じ番号を付けられて、彼と同じ房に入れられた。看守は誇らしげにそのことを私に告げた。
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1998年12月6日、警視庁捜査2課は、私を強制執行妨害の容疑で逮捕した。
容疑の中身は、不動産会社「S社」が2億1000万円の賃料収入を隠し、住管(住宅金融債権管理機構、現在の整理回収機構)の債権回収を逃れようとした、それを私が指示したというのだ。S社社長らも10月19日に同容疑で逮捕されていた。だが、事件はまったくの冤罪である。警察・検察が作り上げた事件としか言いようがないー。
警視庁の2階にある金網とコンクリートの壁で囲まれた狭い独居房に私は閉じこめられた。しかし、私は房の中で、「これで弁護士を辞められる」と開放感に浸っていた。これまで実に厳しい日々だった。人の悩みを聞き、人の悔悟を引き受け、警察・検察・裁判所に全力で立ち向かっていく。ここまでやればいい、という限界もない。それは、私にとって分不相応な仕事だった。常に敵がいて、利益対立する相手がいる。弁護士になってから、まともに寝たことがない。その重荷からも解放される。これからは、自分のことだけを考えて、ゆっくりと寝ることができる。
<ペンペン草の生い茂る朝焼けの道を、私は人力車に死刑囚を乗せて走る。逃げているのか、刑場に運んでいるのか>
20年前の司法修習生の時、「歴程」いう名の冊子を作った。その巻頭言に書いた一節だ。2年間の研修を受け、やがて弁護士になる。このまま変節していくかもしれない不安を綴ったものだ。私は、留置場の天井を見ながら、その言葉を反芻した。やはり私は、「死刑囚を乗せて逃げていた」ということに安堵した。
弁護士になって18年、死刑事件をやり続けてきた。それは、変節しないという、自分自身への歯止めでもあった。名古屋女子大生誘拐殺人事件(80年)を犯してしまったKさん。私は、彼と生を同じくするつもりでいた。しかし、死刑判決を覆すことができず、処刑も阻止することができず、結局、遺体を引き取って彼の母と抱き合って泣いた。
私は、みすみす彼を殺させてしまった。泣いて済むものではない。私の職責は、彼を助けることであったはずだ。その後、Kさんの母は、息子の後を追いかけるように亡くなった―。
その私も囚われ人となった。ようやく、私が今まで付き合ってきた人たちと同じ場所にいる。
住管は、逮捕後に私を告発した。彼らは、私に一片の事情を聞くこともなく、警察・検察の言い分だけで私を告発したのだ。後に彼らは、
「告発をしたくなかった。しかし、警察・検察に迫られ、告発しないと今後協力をしないと言われ、やむを得ず告発した」と弁明した。
彼らは、自分の都合で他人を売り渡すのだ。
S社長にも、その家族にも、弁護人解任の圧力が加わった。警察はS社長に、「弁護人を解任しないと執行猶予にならない。保釈にもならない」と迫った。
S社長は、ついに第1回公判の直前、弁護人全員を解任し、刑事事件をほとんどやったことのない渉外弁護士を弁護人に選んだ。そして、裁判ではすべてを認め、保釈されたうえで執行猶予の判決を得た。
私の闘いにとって、S社長が裁判で争わないことは決定的だった。検察・警察は、そのことを承知の上で、S社長に圧力をかけたのである。
検察官が私の逮捕直後から公言していた通り、私は12月25日、起訴された。
直ちに保釈請求をした。何千人もの人々から保釈を求める署名があった。死刑廃止議員連盟の国会議員の署名もあったし、アムネスティ・インターナショナルの日本政府に対する要請書もあった。しかし、みんなの期待に反して却下。
現在の“人質司法”の中にあって、たとえ軽微な事件であっても、否認して争う被告に、保釈が認められようはずがない。とりわけ、私の場合は、罪証隠滅を保釈拒否の理由とされた。検察官の保釈請求却下の意見書は、22頁にも及ぶ長大なものであった。「安田を絶対保釈させない」という検察官の強固な意思表示だった。
検察官は、この事件が日本の、ひいては世界の金融秩序を破壊する重大な事件であると謳い上げ、私の証拠隠滅工作の物語を書き連ねた。加えて、警察が私の事務所を捜索した時、同僚の弁護人がこれに抗議し、警察官が引き上げる際には、事務所の仲間が警察官に向かって塩をまいて「二度と来るな馬鹿野郎!」との暴言を吐いた上、ドアを蹴った(真実は、「馬鹿野郎」と言ってドアを蹴ったのは警察官)という。
検察側は、「このような反権力的な事務所に安田を戻すなら、安田は彼らに扇動されて裁判所が決めた順守事項を守らない」と主張した。
私は、これを聞いて本当にうれしかった。涙を流した。
外でも塩をまいてまで、怒ってくれている。もし、それがために私を閉じこめておこうというなら、望むところだ。
警視庁の留置場は、単なる檻。鳥カゴと同じく、すべてが監視・監察にさらされている。それは取り調べのために閉じ込めておくだけの人間の物置だ。いつ出られるかも分からない不安の中で、すべての生殺与奪権を握られ、連日の過酷な取り調べが続く。
取調室は、3畳ほどの鉄扉でふさがれた壁だけの、外界から完全に閉ざされた空間。その閉塞感、隔離間、孤絶感は実に効果的である。何を言っても駄目、助けを求めても無駄。ここで、何をされようとも、誰にもそのことを証明できない。
だから警察は、何でもできるし、何でもしゃべらすことができる。警察官が絶対的な権力者に見える。さらに彼らがへりくだる検察官は、その上に君臨する全能の神に見える。だからこそ、彼らは思うように虚偽自白を得ることができ、事件をねつ造することができる。日本の司法は、拷問の上に成り立っている。
逮捕された解放感は、わずか2〜3日で吹っ飛んでしまった。
怒りがわき上がってきた。自分でも信じがたいほどの怒りがわき上がってきた。夢の中でも怒る。その怒で目が覚める。事件をでっち上げた検察と警察、そして住管。夢の中で私は、住管のK弁護士の頭を殴りつけていた。
留置場の外では、多くの人が私の身を案じてくれ、1250人の弁護士が弁護人となってくれた。
仲間の弁護士の中には、「検察に頭を下げて謝り、弁護士バッジを外したらどうか、そうすれば3年で資格を回復できる」と、勧める人もいた。
こんな出来事もあった。12月30日のことだ。留置場の運動場で1人の青年が、私のそばに腰を下ろした。まっすぐ前を向いてタバコをふかす。つぶやくように、低く、小さな声が聞こえて来た。「先生、Zを知っていますか。S社のZ。背が小さくてインシュリンを打っていた奴。あいつが『先生の言うとおりやっておれば、こんなことにならなかったのに』と言っていたのが・・・(注・聞き取れなかった)しやがって、それで先生はやられたんだよ。Zは自分は起訴されると言っていたが、起訴猶予で出て、その2日後に先生が入ってきたんだ。汚ねえ奴だ。あいつは、出たらやられると恐れていて、みんなにスプレーとか・・・(前同)をどこに行ったら買えるか聞いていた。あの野郎、とんでもない奴だ。あいつが、先生を・・・(前同)しやがったんだ」私はその言葉を一言も忘れないように、房に帰ってノートに書き留めた。
そして、さらに4日後の99年1月3日。再び、その青年たちと一緒の運動となった。私の隣に2人の青年が座った。今度は、私も質問した。監視の目をかいくぐって、私に、秘密の情報を話してくれる人達なのだ。まるで、映画「パピヨン」の世界だった。
1月6日、私は、追い立てられるように、東京拘置所に送られた。留置場にいるみんなが「頑張って!」と拍手で送り出してくれた。しかし、入所時の全裸検診では、有無を言わさず私の自尊心をたたき潰そうとする。そして、私は自殺防止房に入れられた。天井にテレビカメラと集音マイクがあり、24時間監視されている。夜も本を読めるほど明るい。自分でつけることも消すこともできない。窓ガラスの半分が鉄板でふさがれていて、空気も光もまともに入ってこない。房内にすべての突起物はない。水道の蛇口さえ壁に埋め込まれている。箸、ボールペン、タオル、自殺の道具となる物は、常時房内で所持することができない。冬はまだしも、夏になれば壮絶な暑さとなる。目と鼻の先の房内のトイレ。夜間はトイレの水を流すことさえ禁止されている。カビが生え、ゴキブリや丸虫が走り回る房内。時計もなく鏡もない。カイロ以外に暖を取るものが無く、団扇以外に涼を取るものもない。房内の電化製品は乾電池式の電気カミソリだけという実に不便な生活。まるで40年前の生活である。
不合理にして異常な規律。朝夕、房扉に向かって正座し番号を唱える。日中は、壁に背をつけて座机に向かってひたすら座り続ける。トイレ以外、動いてはならない。寝るときは、布団から顔を出して房扉に向かって寝る。違反すれば、苛酷な懲罰が待っている。抵抗すれば、“制圧”と称する激しい集団暴行を受ける。さらに、保護房と言われる隔離房に入れられる。腰に巻かれた革手錠に両手を固定されて、リノリウムの床に丸太のように放置され、糞尿の垂れ流しを余儀なくされるリンチ。2〜3日は出られない。現に、これで殺された被収容者もいる。所長面接、巡閲官への情願、法務大臣への情願があるが、およそ役に立たない救済制度だ。
容器としかいえない粗末な食器。煮るか炒めるか揚げるかだけの、選択の余地のない食事。それは飼料という方がふさわしい。わずか15分間の週2〜3回の入浴。1回につき30分間の週2〜3回の屋外運動。走り回ることもできない狭い網カゴの中で、縄跳びの紐しか与えられない。一般面会は、1日1回限りでわずか5分から20分。立ち会い付きなうえ、アクリル板越しの面会である。これさえも、土曜日や日曜日、祝祭日は、取りやめとなる。外の休日は、なかでは地獄と化す。
医療に至っては、人的にも物的にも貧困。看守が病状を聞いて、医療の要否を決め、看守が投薬する。歯の治療は、唯一抜歯だけ、私は、二本の奥歯を失った。そして、徹底的なプライバシーの剥奪と破壊。弁護人への手紙でさえ検閲され、塗りつぶされる。ノートは、定期的に検閲されて自由に書くこともできない。
拘置所の職員は被収容者を人間とは思っていない。家畜のように人間を扱い、管理する。「ガタガタぬかすんじゃねえ!てめー!この野郎!」彼らは度し難いほど凶暴である。とにかく、何かにつけて手を抜き、さぼる。監視・監督以外のすべての労働は、“雑役夫”と呼ばれる受刑者を奴隷のように使って済ませる。そこは現代の収容所―。これほど激しい人権侵害はない。それでも、警察の留置場よりは、まだましであった。
1999年9月10日、金曜日。東京拘置所で死刑が執行された。朝から異様な雰囲気であった。看守の数が異常に少なかった。死刑執行に動員されたのだろう。執行があったとの新聞記事は墨で塗られて見ることができない。ラジオのニュースも編集されて流れてくる。しかし、バラエティー番組までは手が行き届かない。その番組の合間のわずか2〜3分のニュースから死刑執行の報が伝わる。その時、舎房の中で、「死刑執行に抗議するぞ!」とシュプレヒコールが起こった。看守が5〜6人、集団で走ってきた。房の鍵を開けて、有無を言わさず被収容者を抱え上げ、舎房から連れ出して保護房に放り込む。強烈な暴行が加えらたのだろう。シュプレヒコールは、すぐに小さくなり、そして途絶した。
後藤田法務大臣(当時)が93年3月、死刑の再開を命令した。以来、東京拘置所では15人が処刑されている。死刑執行は紛れもない殺人だ。同じ空間で、同じ職員が、職務として人を殺している。彼らに、人を人として扱えと求めること自体、どだい無理な話だ。ましてや、彼らに処刑を命令する法務大臣に、刑務所の改革を求めること自体、筋違いである。
週明けの月曜日、私は、一般面会の席上、いつも同席して面会の内容を逐一メモする担当者に聞いた。「あなたも死刑執行をしたことがあるか」すると彼は、「立ち会わされたことがある。死刑執行は嫌だ」と言い、涙を流した。ほんのわずかの間の出来事だった。彼は、あと半年で定年という。
私の裁判の話に戻る。第6回公判の反対尋問で、S社の経理を担当していたO氏がようやく2億1000万円の横領を自認した。その後、東京地裁は私に対する見方を変えた。地裁は保釈を許可した。6回目の保釈申請だった。ところが、検察は抗告し、東京高裁にダンボール箱いっぱいの記録を持ち込んだ。高裁は検察に与して、保釈を取り消した。地裁は、その後も連続して保釈決定を出したが、そのつど高裁は検察の抗告を認め、保釈を取り消した。地裁と高裁の争いは、地裁と検察との代理戦争となった。
第10回公判の後、地裁は4回目の保釈を決定した。裁判所の中では、高裁が「ノー」と言っているのに、これに従わない地裁はやり過ぎとの意見がもっぱらであった。しかし、世間ではそうではなかった。私の保釈を求めるデモが行われ、新聞も取り上げ始めた。
強制執行妨害罪は、最高でも2年の刑、しかも罰金刑もある。それなのに、私はすでに10ヶ月近く拘禁されている。常軌を逸している。弁護士会からも非難の声明が出た。しかし、住管の弁護士たちは、私の保釈要請書に署名すれば住管の仕事を打ち切ると圧力をかけて妨害した。
東京地裁は、異例の意見書を高裁に送った。<退職金名目の2億1000万円余の領得については、捜査機関側で把握しておきながら、Oら数名の刑事事件として立件処理していないばかりか、捜査を遂行している形跡もない。被告人の不正義を立証すべき検察官側の重要証人が、右のように重大な不正義を犯していながら放置されていることに照らすと、被告人の身柄を拘束したまま審理を継続することには強い疑問の念を禁じ得ない>と、検察を批判した。ここに至っては、高裁も検察に加担しきれなかった。結局、高裁は4回目にして検察の抗告を退け、地裁の保釈決定を容認した。99年9月27日、私は10ヶ月ぶりに保釈された。私は古くからの友人・知人・依頼者、そして運動の仲間に支えられて精神・肉体ともに強靱であった。しかし、保釈金は5000万円。法外な金額である。このようなカネを私が持っているはずがない。幸いにして、私は知人からの借入れることができた。もしそうでなければ、保釈が決定しても出ることができない。たとえ、銀行から借り入れができたとしても、その利息支払いだけで大きな経済的な負担となる。
裁判は、いまも続いている。私の保釈を許可した裁判官は、裁判の最終段階を前、全員転勤となった。そのあとを引き継いだ新たな裁判長は、被告人質問の最中に突然異動となった。現在の裁判長は3人目である。彼は実質3ヶ月しか審理に関与していない。はたして彼らに、この事件の真相が理解できるだろうか。2003年3月20日―。第91回公判で、検察は、私が何ら反省をしていないとして最高刑である2年の懲役を求刑した。しかし、彼らが引用する“証拠”は、2億1000万円の横領、さらに別途3億3195万円の使途不明金を作った人物らだ。S社長に退職金が少ないとクレームをつけて600万円を騙し取るばかりか、無断で口座開設を繰り返し、経理データを差し替え、証拠隠滅を図った。S社の最後の資産を売却した代金を、自分の個人口座に振り込ませてさらに1500万円の退職金をせしめた者たちの証言だけである。
検察官が彼らの犯罪を見逃す代償として得た「虚偽の証言」に過ぎない。
S社長らは、1審で有罪判決を受けた後、無罪を主張して控訴した。真実を明らかにして、雪冤を求めた。しかし高裁は、地裁でいったん有実認めた人の新供述を信用できないとして、控訴を棄却した。現在、最高裁に継続している。
いま、裁判所・法務省・そして弁護士会が一体となって、「司法改革」と称するものが進められている。「法曹人口を増やす」「2年間で裁判を終わらせる」などが、あたかも「改革」であるかのように語られている。しかし、警察・検察の違法で苛酷な取り調べも、虚偽自白強要の温床である警察の留置場も、容疑を認めない限り釈放しないという人質司法も放置されたままで、いったいどこが司法の「改革」なのか。彼らが行おうとしているのは“大政翼賛司法”という国家政策を先兵として忠実に推進する司法である。検察だけではない、今や司法全体が腐敗している。
裁判所で真実が明らかとなることはない。裁判所で自由が護られることもない。ましてや、正義が実現されることはない。
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